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真葛香山 土や作品の運搬(吉田新田)

しばらく前になりますが、真葛窯に関して、十五代沈壽官さんから「窯の場所って横浜港から遠いよね?」って聞かれました。

確かに真葛窯のあった太田村までは、横浜港から歩いて1時間くらいかかる距離で、決して港に近い立地とは言えません。

やきものには、当然土が必要で、窯のそばで土が採れなければ、他のエリアの土を購入して運搬してくる必要があるわけです。

明治3年に横浜に窯を築いた香山ですが、当初は薩摩の土などを使用していました。

大量の土は、船で運搬されたでしょうから、横浜港に陶土が到着するわけです。

それをどうやって、窯のある太田村まで運んだのか、、、。

当時の道路事情は、今と違って港付近から少し離れれば、道も細く荒れた小道で、当然自動車などもありません。

また輸出向けに制作された作品を、横浜港まで運ぶにしても、一時間以上荒れた小道を運搬するのは、現実的でないですよね。

当時の運搬方法、それは「運河」でした。

眞葛窯の近くには、運河が流れていました。

現在桜並木で有名な「大岡川」です。

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大岡川の正面にランドマークタワーが見えてますね。

この運河を使えば、港との運搬は非常にスムーズなのです。

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(講談社横浜タイムトリップガイドより)

一番左に「日枝神社」と表記がありますが、その右斜め上あたり、川の上あたりが眞葛窯のあった太田村です。

地図を見てみますと、太田村から港へは、運河(大岡川)でほぼ一直線なのがわかりますね。

ここからはちょっと余談なのですが、横浜の中心部は昔ほとんど海だったことはご存知ですか?

関内も、伊勢佐木町も全て海だったのです。

先ほどお話した「大岡川」という運河も、昔は海でした。

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(吉田新田開墾前図)

右下から上の方に、細長い砂州が見えますが(この横に伸びた砂浜が「横浜」という名前の起源だという説もあるんです。)、その内側の入江だった海の部分を埋め立て、新田開発をしたのです。

江戸初期の1656年に着手し、1667年に完成しました。

吉田勘兵衛という人が行ったので、吉田新田といいます。

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DSC02509.JPG

DSC02507.JPG
(以上 講談社横浜タイムトリップガイドより)

地図で着色されている部分が吉田新田で、この釣鐘状の新田のまわりに運河があったのですね。

運河は当時の運搬手段として、主流だったのです。

下の写真の左上あたりに「太田村」の表記が確認できます。

DSC02505.JPG

最後に、明治8年頃の吉田新田の風景です。

DSC02506.JPG
(明治8年横浜地名案内より模写 金森南耕)

香山が横浜に窯を築いた頃の太田村付近はこのような風景だったのでしょうね。

のどかで風情があっていいですね~。



今日もブログを見て頂き、有難うございました。


眞葛 博士










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